2011年2月8日火曜日

日本は武士道精神、中国はどんな精神?

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● 武士道


 サーチナニュースから。


Seachina News 2011/01/31(月) 15:53
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0131&f=national_0131_120.shtml

【中国BBS】日本は武士道精神、中国はどんな精神?

 日本人の武士道精神は、新渡戸稲造の著作により世界的に有名だが、中国にはどのような精神があるのだろうか。
 中国検索サイト百度の掲示板に
 「日本には武士道精神があるけど、中国にはどんな精神がある?」
というスレッドが立ち上がり、中国人たちが議論を交わした。
 以下に中国語のBBSを日本語に翻訳した。
 (  )内は、編集部の“素朴な感想”。


● 76.66.65.*
 中国には民族の精神がある。
 しかもどの民族にも負けない気骨がある。といっても中原の時代の中国のことであって、現代の中国ではないが。
 (なぜ現代では失われたの?)

● 58.251.21.*
 わが民族は世界でもっとも強靭(きょうじん)な民族である。
 これは決して誇張(こちょう)ではない。
 そしてこの強靭さは欠点でもあり長所でもある。
 潜在力は統計や経済学の計算で算出できるものではない。
 強さ、勇気、何も恐れない心。
 これらは骨のずいにまで染み込んでいる。

● 84.125.11.*
 功利を求める自己中心的な精神があるじゃん。

● 112.113.227.*
 中国には雷峰の精神がある。
 近代では雷峰、三国時代には関羽、張飛、趙雲がいる。
 わが民族は武士道精神を超越しているのだ。
 武士道は秦の時代に時代遅れになった産物で、唐の時代に日本に持っていかれて発展しただけだ。

● 高楼暮色
 中国には仁義という儒教の精神がある。
 万物みな平等で、誰も傷つけず、誰からも傷つけられない中庸(ちゅうよう)の精神だ。
 これらの精神は今でも多くの中国人の中に見られる。

● 牛比丸
 賭博の精神、ごみをポイ捨てする精神、殴り合いのケンカをする精神、ネット上で詐欺(さぎ)をする精神。
 これらはみんな偉大な中華精神である。
 (自虐的ですな)

● 175.147.208.*
  名声と金のためなら一生奮闘する精神がある。
  (たしかに中国人は世界中で成功している)

● healcures
 日本の武士道は中国から伝わったものだ。
 だが、昔の偉大な精神は今の中国にどれだけ残っているだろうか・・・。
 (それは大まちがい!)

● lushuaixu
 中国は自己中心、貪欲、安逸をむさぼり、働くことを嫌がる精神があるね。

● 華山浪子
 武士道もカンフーもロックも、みんな精神だ!

● GoldSeal
 中国の内輪もめと腐敗の精神は天下無敵だ。



 サイトから。


忘れぬようにメモっておく 
http://blogs.yahoo.co.jp/yonken_1854/2254025.html

 並んで待つという習慣がない

「中国ニュース通信社 Record China 2010-08-06 21:49:53
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=44334&type=

 チャイナタウンのバス、「中国系乗客はマナーの欠けらもない」と指摘―米国

 2010 年8月3日、米国の華字紙ウェブサイト・僑報網が、米サンフランシスコのあるテレビ報道番組のコーナー「世界の悪行」で、同市内チャイナタウンのバス停で「惨状」が取りあげられたと報じた。
 特にバスが混む時間帯には、多くの人が「我先に」と乗車し、マナーの欠けらもないと指摘された。
 環球網が4日付で伝えた。

 番組は今シーズン、公共交通機関や運転のマナーを重点的に取り上げている。
 番組内の映像には、チャイナタウンのバス停で中国系住民が押し合いへし合いしながら乗り降りしているさまが映っており、中には乗客がまだ降りている最中にバスに乗りこもうとする人たちも映されていた。
 番組内では、
 「こうした光景は日常茶飯事だが、チャイナタウンに停車するバスは決して少ないわけではない。
 それにもかかわらず、『このバスが最終バス』と言わんばかりの勢いで押しくらまんじゅうを繰り広げる乗客らが後を絶たない」
と伝えた。

 長年チャイナタウンに住んでいる男性は、バスの本数に関係なく、
 「中国人の多くにはもともと“列に並ぶ”という習慣がないのだ」
と指摘する。
 並んで待つ習慣がないため、中国系住民は混雑している場面に出くわすと、何とかして前へ行こうとしてしまうのだという。



 「待つという習慣がない!」
ということは、これまで中国人はどうやって社会生活をしてきたのであろう。
「待つ」というのは「早いもの勝ち」というルールだろう。
 早く来た人に権利がある、ということである。
 待つ習慣がないとは、
①.うまくズルしたヤツが勝ち
②.力ずくで割り込んだヤツが勝ち
ということになる。
 ということは「詐欺師と暴力団」の世界になる。
 まさか、それが社会ルールというわけでもあるまい。



「中国ニュース通信社 Record China 2010-07-27
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=44074

<レコチャ広場>文化を捨てた中国人は軽蔑されているのか?5000年の伝統を取り戻そう

 2010 年7月25日、近い将来、日本を抜いて世界最大のブランド品市場になることが確実視されている中国。
 一方で、
 「あまりにもあさましい、成金的な振る舞いではないか」
と反省する声も上がっている。
 新浪ブログで発表された
 「外国人店員は中国人をさげすんでいるのか?」
という記事は、この問題を取り上げている。
 以下はその抄訳。

 パリで、ドバイで、ニューヨークで。
 中国人のショッピング熱はソマリア海賊よりも強欲だ。
 ブランド品を買いあさっているのは、2種類の人々。
 第一に安定した仕事を持つホワイトカラー。
 とてつもない金持ちではないが、ハネムーンなど海外旅行に出かけると、中国国内との価格差を考え、必死にブランド品を購入する。
 そしてもう一種の人々が大富豪。
 多くは成金で、まるで白菜でも買うかのようにブランド品を買いあさる。

 海外ブランド店の店員はイケメン、美女ぞろい。
 プロ意識を発揮して、うやうやしく中国人顧客の要求に応えている。
 しかしその目にはある感情を見て取ることができる。
 それは私たち中国人が石炭成金を見る態度と一緒で、成金の田舎者だとバカにした目だ。

 この20年間の中国の高成長は、いろいろなものを捨てさり失って、手にしたものだった。
 それでもよかった。
 犠牲によって中国経済は急成長を遂げ、世界に認めさせることができたのだから。
 だがこれからの数十年は違う。
 これからは文化を、ブランドを、価値観を、クリエイティブなデザインを輸出しなければならないのだから。

 欧米の有名ブランドは数世代をかけて信用を築いたもの。
 確かに中国にはここ数世代の伝統はない。
 だがわれわれには5000年の文化があるではないか。
 中国人の中に脈打つ歴史の流れを消し去ることはできない。
 そして中国の伝統文化こそ、数十年という短い時間で100年以上の歴史を持つ海外ブランドに追いつくための近道なのだ。



 「中国にはここ数世代の伝統がない」
 本当のことか!
 若いころ平凡社の「中国古典文学大系」が出たとき、あれを全部集めて読みたかった。
 自分の部屋の棚に揃えておいておきたかった。
 でも、非常に高価だった。
 せいぜい数冊集めたに過ぎない。
 史記、漢書、資治通鑑、論語など。
 中国の文化は論語のあと少々でstopしてしまったのか。

 アメリカは日本と開戦したとき、日本の文化を徹底的に調べあげた。
 そこから生まれたのが、あの有名な著作、ルース・ベネデイクトの「菊と刀」。
 日本民族論の原型というか基礎になった本である。
 すべての日本人論はこの本をベースにして花開いている。



 Wikipediaで見てみる。

 ルース・ベネディクトの『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword)は、日本文化を説明した文化人類学の著作である。

 ベネディクトは、フランツ・ボアズより教わった急進的な文化相対主義の概念を日本文化に適用するべく、恩や義理などといった日本文化『固有』の価値を提唱した。

 ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。
 『菊と刀』はアメリカ文化人類学史上最初の日本文化論であり、出版から50年以上たった現在でも不変の価値を持ち続ける古典的な著作とされる。




 彼女は実際に日本をみたことがなかった。
①.日本に関する文献の熟読
②.日系移民との交流
を手がかりに、「菊と刀」を書いた。
 特に、文献の読破がこの本の完成の鍵になっている。
 それは、文明開化にいたるまでの日本の武家社会における倫理道徳観の総括といえる。
 明治維新(1868)から終戦(1945)までは77年ある。
 が、この期の道徳観は天皇制を除けば、その前の封建武士社会の倫理観の延長である。
 いわゆる「忠孝」である。
 留学した新渡戸稲造が、
 「日本の宗教なき社会の規範は何か」
の問に窮して著したのが「武士道」である。
 "まえがき"にこうある。
 「私は封建制と武士道がわからなくては、現在の日本の道徳観念は、まるで封をした「巻物」と同じことだとわかった」
 武家期にはある定まった道徳観があり、それを体現したような書籍の膨大な山が江戸期に出版され、一般庶民に提供されていた、ということである。
 ベネデイクトはそれらの文献を漁って、文化人類学的視点から論考したのが「菊と刀」である。
 つまり、ベネデイクトはバックデータを押さえることができた、ということである。

 さて、中国には現代に影響を与えるような伝統がない、という。
 あるのは悠久の時の向こうに横たわる古典の世界のみであるという。
 もし今、ベネデイクトが中国を文化人類学視点から見た中国を論じるとしたら、何を手がかりに、どういう内容のものを著すのであろうか。
 いったい、中国人民は今後、何を道徳律として、文化を築いていくのであろうか。
 そして築けるのであろうか。
 まさか
 「向銭観(拝金主義)」だけ
で、世界に出ていくわけにもゆくまい。
 どこかで、社会的ルールを見につけなければならない。
 目先のことなら「並んで待つ」というささやかな習慣を体に擦り込まないといけない。
 果たして、それができるのか。
 中国文明はいま一つの試練の時代を迎えようとしている。


 
 日本人が今、「行儀がいい」と言われているが、高度成長期のときはどうだっただろうか。
 胸に手をあてて考えてみればいい。
 率先して外国に出ていったのは、農協パワーのおじいさん、おばあさんだ。
 お金があったのだ、そのころの農民は。
 「農協、月へ行く」
とまでやゆられていたのである。
 その時代を経た日本が、豊かな社会からの一方的な目で中国を見るのはいかがなものか。
 あと、30年、40年もたてば、中国も社会秩序を持った国家に成長しているはずであると思う。





 <future design> 



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