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● 「3月11日」で検索した動画
● 「3月11日」で検索した動画(続き)
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上記のように動画元が削除されてしまいました。
「3月11日」で再度検索して、次なる2本載せてみました。
『
3月11日 俺ん家に津波がくるとは・・ ...
http://www.dailymotion.com/video/xhs7ke_yyyyyyyyyyyyyyyyyyyy_news
● dailymotion.comなので埋め込み方法が分かりませんのでアドレスをクリックしてください
注].もしかしてこの映像、削除された1本目と同じような気がするのだが。
前はyoutube、これはdailymotionになっています。
』
『
立ち並ぶ家屋をなぎ倒す大津波=釜石港で国交省港湾事務所が撮
http://www.jiji.com/jc/movie?p=top251-movie02&s=270&rel=y
』
『
WIRED VISION 2011年05月25日
小田切博の「キャラクターのランドスケープ」
http://wiredvision.jp/blog/odagiri/201105/201105251430.html
「クールジャパン時代」の終わり
WIRED VISIONが終了するとのことで、今回でこのコラムも最終回である。
もともと自分の中では、このコラムは昨年出した『キャラクターとは何か』(ちくま新書)の執筆ノートのような位置づけだったので、そろそろ終わってもいい頃合だったという気もする。
最後にここで書いてきたことの総括というか、前述の新書を含めた自分自身の執筆動機のようなものを述べておきたい。
2000年代という「クールジャパン」の時代、マンガやアニメといったサブカルチャーが文化や商品としてだけではなく政治的な注目まで集めるようになり、これまでになく多くの学者や文化人がそれらについての言説を紡ぐようになった。
私は批評家でも専門の研究者でもなく、単なるライター、それもそうした領域の比較的傍流で書いてきた人間に過ぎない。
特に権威も影響力もない無名の書き手にすぎないわけだが、一見マンガやアニメがより広範な社会的注目を浴びるようになった状況の中で語られる言葉の多くに対し、どうしても違和感を拭えなかった。
マーチャンダイジングなどの商業面をまったく無視したキャラクター論や、安易としか思えないやり方でアニメやマンガの物語を社会の変化や世代と結びつけた批評、「クールジャパン」に代表される日本優位論との野合、専門性を保障する知識がなんなのかもはっきりしないまま進行する学問化......そうした言葉や状況に対して、私は一定のアンチテーゼを提示する必要に(勝手に)駆られたのである。
結果的にこのコラムは、ごく単純なマンガやアニメが商業的なプロパティーであるという指摘にはじまり、「メディア芸術」という不思議な概念の孕む問題や海外との関係、学問的な研究対象としての「マンガ」とは何なのか、といった一見雑多なトピックの寄せ集めになっているが、私自身の中では「クールジャパン時代」の状況と言説に対する批判意識の点で一貫している。
だが、そうした役目も3月11日の震災によってほぼ終了したといっていいのではないかと考えている。
日本社会全体がこれだけの被害(実際にはまだ終わってすらおらず、現在進行形である)を受けた以上、今後のコンテンツやメディア芸術に対する政策割り当てや予算規模は必然的に縮小していくだろう。
また、原発事故によって風評被害というレベルを超えて「日本」に対する国際的なイメージが(それがどのようなものかはまだわからないにせよ)決定的な傷を負ってしまった以上、政治的にも文化的にも、これまでのように「日本はクールだ」といっていられるような状況ではなくなっていくのではないかと個人的には思っている。
仮に世界一国際的な支援を受けている国民になってしまった日本人が、
「自分たちが世界的な流行の発信地、先端なんだ」
などと嘯いていたら、日本人自身はともかく外国の人間からはどう見えるだろうか。
私はどう考えても変な風にしか思われないだろうと思う。
いまはまだはっきり目に見えるかたちであらわれてはいないが、
おそらく3月11日を境に「クールジャパン時代」は終わった
のだ。
もちろん、「クールジャパン時代」の終わりが日本のマンガやアニメの衰微を意味するわけではない。
マンガにしろアニメにしろ、今後も日本社会の中で数多くつくられ消費されていくだろう。
だが、それらの存在がここ10年ほどの日本社会で語られてきたように、ストレートに「国力」と結び付けて語られるような状況はもう存在し得ないはずだ。
そういう意味で、このコラムの役割も(私の中では)終わった。
これはけっこうちょうどいいタイミングでの終わり方なのではないかと思っている。
』
3月11日。
世界のマスメデイアは日本に釘付けになった。
NHKをはじめ、FNNなどはコマーシャル抜きでたしか2日間ほどぶっ続けで放送した。
放送といってもテレビ放送ではない、インターネット放送だ。
世界中の誰もが見られた。
その衝撃により、世界が日本に取り込まれたしまったのだ。
その後も、素人の撮った映像がつぎつぎにyoutubeを始めてとした媒体に発表された。
もはや、それは語るべき言葉のないほどのすごさである。
恐怖に近い一瞬一瞬が画面から流れでてくるのだ。
世界の誰もが、自然のもつ脅威の坩堝に叩きこまれたのだ。
これほどまでに日本が世界に発信されたことが過去にあっただろうか。
それも、日本の片田舎と思われる地域からの映像が、東京という中心地の映像が、個人住宅内での地震時の家族の姿が、住宅がいとも易々と津波に飲み込まれ流されていく恐ろしさが、原発という近代技術の粋を集めた施設の崩壊がである。
そして、それを超えて恐ろしいのはまるで
「無声映画を見ている」
ような、国民の落ち着き払った静かな反応である。
まさにクールな行動が。
それは冷ややかなのか、カッコイイのか、清潔なのか、涼やかなのか。
危機に際してここまで安静にしてしていられるのは何故か。
この精神的背景はなんなのか。
日本の文化とは、社会とは、いったいなんなのか。
これまで「クールジャパン」という名前で発信されていたものは、日本文化の切れ端でしかない。
3月11日の出来事では、日本のベースとなるべきものがありとあらゆる場所から発信された。
世界は日本に取り込まれた。
世界が日本を知った。
危機にあってのこの民族的文化の不思議さはなんなのか。
それを基礎に、いよいよ日本文化の世界発信が始まる。
この日をもって、本格的な
「クールジャパン時代」
が始動しはじめた
と言ってよい。
日本、この未知なる文化が世界に動き始めている。
世界は経済成長で評価する時代に終りをつげ、
豊銭でなく識知で評価する時代へとかわりつつある。
それに多大のパワーを秘めているのが日本だ。
経済成長、そんなもので図る時代は日本では終焉を迎えている。
軍事力から経済的富へと移ってきたのが昨今の歴史。
軍事力の拡張は敗戦という終りを迎えた。
世界ではソ連滅亡という形をとった。
経済成長はバブル崩壊という結末となった。
それから20年、安定した経済の中で日本は過ごして来た。
そこには経済成長はない。
それをもって人は失われた20年という。
ある説によれば豊かさを失った日本は文化をお金で買うことができなくなった。
そこで自前の文化に目をつけ、リニューしたのが「クールジャパン」である、という。
ということはその裏にあるものは「貧しさ」ということになるが。
外の文化が買えないから、自分で文化を作る、それがクールジャパン?
ならば、クールジャパンは失われた20年が母体ということになる。
がそれは、時代背景からして脱経済成長の旗手でもある。
3月11日は日本のあらゆるクールジャパンを世界に発信した日。
これを機に日本はいよいよ本格的に
「クールジャパンを世界に」
押し出すことになるだろう。
押し出すこともなく、世界がまるごと日本を求めてくるだろう。
それが、正真正銘のクールジャパン。
今、日本の求める価値は、富・ゼニ・豊かさではないものに移ろうとしている。
それが、姿を現し始めた「クールジャパン時代」の真髄である。
<future design>
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