2011年3月10日木曜日

日本の「失われた20年」

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● 「世界経済のネタ帳」から



 「失われた20年」といわれている。
 1991年の名目GDPは「467兆円」、そして2010年のそれはほとんど変わらず「477兆円」。
 つまり「成長率:ゼロ」である。
 がである。
 つい最近、中国に抜かされるまで日本のGDPはアメリカに続く「世界2位」であった。
 それも四十数年間も。
 もちろん、失われた20年の間も。
 これちょっとオカシイと思いません。

 アメリカという超大国を除けば、40年以上にわたって、東方の小国がGDPのトップに君臨していたのである。
 ヨーロッパの先進国は今なを日本を抜いていない。
 人口10倍を超える中国がとてつもない急成長をとげ、やっと日本を抜いたという。
 なぜ、失われた20年の間にヨーロッパ先進国が日本を抜けなかったのか。
 「失われた20年」と標語するなら、その間に日本は惨めにもヨーロッパ先進国の後塵を拝してしまった、となるべきではないのか。
 それがない。
 これからもない。
 どうして?

 日本はこれから増えすぎた人口を減らしていく「生態的個体調整」期間に入っていく。
 経済発展を目標とする社会的人為的人口膨張は、生物の生存論理に道を譲っていく。
 日本の適正人口(あるいは静止人口)は「8千万人---9千万人」だという。
 2045年ころには1億人を切るという。
 現在の人口は1憶2,700万人。
 つまり、あと30年少々で、5人のうち1人がいなくなる勘定になる。
 1/3世紀で「2,700万人」の人が消えるということになる。
 
 ところで、この失われた20年で生産環境はがらりと変わった。
 以前は4人かかるところが3人で造れるようになった。
 ということは、その分、人が余ってくる、ということになる。
 これからはもっと生産効率はあがるだろう。
 つまり生産を上げるということは、人手がいらなくなるということである。
 なら生産の総量をあげればいいということになる。
 日本はそのシステムをとっていない。
 生産環境は成熟している。
 日本は腹一杯詰め込んでいるのである。
 これ以上は入らないのである。
 日本の原油輸入量はオイルショック以降ほとんど変わっていない
 つまり、もうメシはいらない、ということである。
 
 日本の経済は成長の頂点まで登りつめているのである。
 「モノあまり」なのである。
 人が余っているし、モノも余っているのである。
 だからデフレなのである。
 日本の経済は、
 「成長から成熟へ
 「発展から安定へ
 「加速から走行へ
 「イニシャル型からランニング型へ
 「建設型から運用型へ
 「青年期から壮年期へ」
へと変貌している。
 これ以上のエネルギーの注ぎこみは不要なのである。
 不要というより「やってはいけないのである」
 これ以上やると、オーバーヒートを起こしてしまうことになる。

 停止している車を時速120kmまで上げるにはアクセルを踏み込んで、ガソリンをエンジンに送り込みエネルギーを消費させねばならない。
 が、120kmに達したらもうアクセルを踏み込んではならない。
 ペダルに足をそっとのせておくだけでいい。
 わずかなエネルギーで120kmは維持されるのだ。
 もしここで、アクセルを踏み込んだらどうなる。
 暴走してしまう。
 日本はその時点にある。
 日本は車でいうなら120km/hで走行中なのである。
 ときどき、アクセルを押すだけで、安定した走りがなされる状態にあるのである。
 
 これからは、人を減らし、エネルギー消費を抑え、経済成長などという亡国論理は控えめにして、適正人口時のモデル社会を俯瞰して、それに見合う社会環境を創造していくことが、求められているのである。
 と言っても過去の近代経済学のベースになっている唯物的経済学しか習っていない連中にはムリだろうが。
 経済成長こそ、善であり、美であるとしか教えられていないのだから。
 そういう連中が世の中を動かしているのである。
 でも「日本人という生物個体」は生態アンテナに反応するものを「善」として我が行く道を進んでいるのではないだろうか。
 それが、経済成長不要論であり、少子化肯定論のベースになっているのではないだろうか。
 分かっていることはタダ一つ。
 2050年には日本の人口は1憶人を切り「9千万人台」になっているということ。
 なぜそうなるのか。
 それを考えてみれば、おのずと分かってくることである。
 とすれば、これから考えるべきことも分かってくるはずである。

 朝鮮日報特集より

■ 少子化

■ 青年の失業

■ 不動産市場

■ 政府負債

■ 対外開放



 地球は経済成長など望んではいない。
 人口増加など欲っしてはいない。
 すべてを経済発展の数値に置き換えて物事を考えるのは、近代経済学者と評論家といわれる亡者だけである。
 すでに、世界は人口調整プランを机上に載せているのである。

 『人類が消えた世界』アラン・ワイズマン著、鬼澤忍訳、早川書房2009年版から抜粋で。




 世界的に見ると、人口は4日で百万人ずつ増えている。
 こうした数値は実感しにくいので、人類が制御できないまま増え続け、やがて破滅する。
 「地球という入れ物」に対して大きくなりすぎたすべての種が、そういう運命をたどってきた。
 そのようなシナリオを変えることのできる唯一の手段は、全人類が自発的に絶滅するケースを除けば、わたしたちを特別な存在にしているのは、やはり「知性なのだ」と証明することである。
 知性による解決には、私たちの知識の真価を試す勇気と知恵が不可欠だ。
 これには、さまざまな心痛や苦悩が伴う。
 つまり今後は、
 「地球上の出産可能な全女性に子どもは一人」
と限定することである。

 セルゲイ・シェルボフ博士は、オーストラリア科学アカデミー・ウイーン人口研究所の研究リーダーで、世界人口計画の分析官でもある。
 博士は、国連が発表した2050年までの平均余命の中間シナリオを使い、今後、出産可能な全女性が一人しか生まなくなったら人口がどう変動するかを試算した。
 2004年時点での女性一人当たりの平均出産数「2.6人」である。
 国連の中間シナリオでは、2050年までにその数は「2.0」人程度に減少するとされている。
 もし、「一人しか生まない」ということを明日からはじめると、現在65憶の人口は今世紀の半ばまでに10億人減ることになる。
 現状のままだと、総人口は90億人になると推定されている。
 その時点で一女性一児が守られていれば、地球上の全生物の生活環境は劇的に変わっているはずだ。
 自然減であるため、こんにちの「人口バブル」が再び以前のようなペースで膨れ上がることはあるまい。
 2075年までに、総人口の半分近くの34憶3千万人ほど減少する。
 人類にかかる負荷の低下は著しいものがあるだろう。
 私たちの活動の大半は、生態系全体を通じた連鎖反応によって増幅するからだ。

 いまから100年足らずの後の2100年には、人類は16億人になる。
 これは、エネルギーや薬や食料の生産量が増えたことにより人口が倍増し、ついで二度目の倍増をする前の19世紀以来の数である。
 当時、そうした技術の発見は奇跡のように思われた。
 こんにちでは、過ぎたるは及ばざるがごとし、ということわざの通り、
 技術に溺れれば溺れるほど生存の危険は増す一方
なのである。

 
 つまり、経済発展を終了した国は、目先のソロバン勘定なんぞに一喜一憂することなく、国土に優しい、地球に優しい生活を営むべく、生物としての人間の部分を少しばかり取り戻してもいいのではないだろうか、ということである。
 日本人はこれまで、あまりに金勘定つまり経済数値にのめり込み過ぎていたのではないだろうか、そんな疑問を持ってもバチは当たるまい、ということである。
 なにしろ、日本ははるかな昔から世界でも、小さい国土で、
 「人口密度の高い国」
として知られているのだから。

 「失われた10年」と揶揄され、「失われた20年」と蔑まれ、それでもGDPが世界2位。
 バカにされ続けた身体に負いきれぬ順位という荷を背おってよいこらよいこらと歩み続けて20年。
 やっと、20年目で中国が代わってくれた。
 ここらでのんびり一休み。
 中国さん、ずっと背負っていていいからね。
 「一番じゃないといけないんですか」ってセリフがウケたが、
 「ニ番じゃないといけないんですか」
はどうだろう。
 「いいえ、三番で十分」
 


 <future design> 



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